「なぜ今、文学が必要なのか?『我々にはいま、文学が必要である』が解き明かす価値」

正義への渇望とその代償

今回取り上げる『我々にはいま、文学が必要である』は、普段文学に親しみのない読者にはやや難解に感じられるかもしれない一冊である。しかし、法曹という職業に従事する者だけでなく、幅広い読者にとっても示唆に富む内容であり、筆者自身、長らく抱いていた「小説を書きたいのに書けない」という悩みの根源を、本書を通じて初めて理解するに至った。以下では、本書から得た気づきと、実務における文学的手法の活用経験を紹介する。

今回読んだ『我々にはいま、文学が必要である』という本は、普段文学に親しみのない読者にとってはやや難解に感じられる一冊だと思う。筆者自身も、これまで主に非文学系の書籍に接してきたためか、読了までにかなりの時間を要した。それにもかかわらず、本書は筆者と同業の法曹関係者のみならず、他の読者にとっても大いに有益な一冊であると考える。あわせて、本書を読みながら、これまで「小説を書きたい」と思いつつも実際には書けずにいた理由を、ようやく理解することができた。


書名:我々にはいま、文学が必要である

(日本語版タイトル:『文學の実効精神に奇跡をもたらす25の発明』)

著者:アンガス・フレッチャー


本書を通じてまず共感できた点は、「行き過ぎた正義の追求が抱える問題点」に対する認識であった。


「公正さに対する脳の渇望は、古くからあるだけでなく、非常に強いものでもある。現代の心理学者たちが発見したところによれば、その渇望はあまりに強いため、我々は被害当事者でなくとも、公正さを執行するために財産や健康すら差し出そうとする。……その感情的な強度はあまりに大きく、加害者に法の裁きを下させるために、我々自身をも危険にさらすのである」


筆者は、我々の社会においてこうした要求がかなり強いと感じている。被害当事者本人は「もうこの辺りで……」「これだけ加害者が謝罪したのだから、この程度で赦してもよいのではないか」と考えることが多いにもかかわらず、むしろ周囲の人々の方がより強硬な態度を示す場面をしばしば目にする。被害者本人は「これで十分だ」と思っていても、被害当事者ではない第三者たちが「加害者を懲らしめるべきだ」「加害者を社会的に葬るべきだ」「二度とこの世に居場所を与えてはならない」などと主張し、「自分たちだけの」「正義」を実現しようとするのである。

そうした光景を目にするたびに、筆者はこう自問してきた。

「これは本当に正義なのか」

筆者はむしろ、このような「正義への要求」こそが、我々の社会を「赦しのない」「和解も赦しも決して許容しない」不毛な社会にしていると考えてきたが、まさに本書がその点を指摘しており、自らの考えをここまで的確に言い当てられていることに驚きを覚えた。以下の一節である。


「我々は彼を赦すことができる。赦しを通じて、完全な正義の実現がもたらす過酷な社会的結果を防ぎ、執拗な怒りと不信がもたらす負の影響から、我々の脳を解放するのである」




赦しがもたらす心理的解放

筆者は、正義の追求も重要ではあるが、適切な「赦し」が伴ってこそ社会は円滑に機能すると考える。これは被害当事者自身にも心に留めておいてほしい点であるが、本書でも述べられているとおり、加害者を生涯にわたり憎み、恨み、憎悪と敵愾心を抱いたまま生きていくことはできないと思う。筆者自身の経験に照らしても、加害者への憎しみを募らせ、正義の実現のために怒りを表出すればするほど、かえって自らの感情をすり減らし、まともな生活を送れなくなる面があった。それゆえ、むしろ加害者が赦しを求めるときには寛容な心で赦し、自らもまた否定的な経験から解放される道を選ぶ必要があると感じた。

さらに、謝罪は広く社会的な次元においてのみ有益なのではなく、個人的な次元においても有益である。


「我々の脳が謝罪を受け入れると、怒りや被害者意識といった否定的な感情は減少する一方で、信頼や愛情といった肯定的な感情は増加する」


法廷における文学的説得の力

本書で次に共感を覚えたのは、様々な文学的手法が弁論や説得に大きな影響を与え得ると論じている点である。筆者はこれに全面的に同意する。筆者自身も実際にそうした手法を用いた経験があり、その効果を強く実感したことがあるためである。

被告人の「悲鳴混じりの叫び(嘆息、後悔、悔恨)」が法廷に響き渡ったとき、傍聴席と裁判部の双方が動揺し、判決文においても被告人の反省が量刑に与えた影響について詳細に述べられ、減刑がなされた経験を、2019年に実際にしたことがある。当時も「なぜこのような方法がこれほどまでに効果を発揮したのか」という疑問を抱いたが、その疑問はそのときには解けなかった。2年半が経過した後、まさに本書によって、その疑問への答えを得ることができた。

付言すると、筆者が上記のような方法を用いるに至った経緯は、まったくの偶然であった。法廷に入る前、女性用トイレに立ち寄った際、ある女性が誰かと電話で、涙と嘆きの混じった声で会話をしている場面に居合わせた。筆者は用を足しながら、その女性の声を聞き続けることになったが、その涙と嘆きの混じった声を聞けば聞くほど、「自分のことではないにもかかわらず」不思議と心が「じんわりと」揺さぶられ、「強く動揺する」のを感じた。

まさにその瞬間、「これだ」と思った。

最も強力な弁論の方法に気づいた瞬間であった。その方法は筆者自身の口から語られてはならず、被告人本人の口からそうした嘆きが発せられなければならないものであったが、問題は、被告人と筆者との間で事前にこの点について打ち合わせたことが一切なかったという点であった。どうすれば被告人の口から、大衆の心を打つ後悔と嘆きを引き出すことができるのか──それが鍵であった。悩み抜いた末、他の弁護士が通常用いないような、やや異例の方法を用いてこれを引き出したところ、結果は非常に成功裏に終わった。


「オイディプスの叫びは謝罪ではない。彼は『申し訳ありません。二度としません』とは言わない。……ただ激しく泣き叫ぶだけである。しかし、この悲鳴混じりの叫びは、正式な謝罪に劣らず効果的である。いや、少なくとも神経回路に関して言えば、より効果的である。形式張らない即興的な叫びは、オイディプスがリアルタイムで気づきを得たことを示している。……オイディプスの叫びは、反射的に我々の共感を呼び起こすのである」


この経験を言葉で表現することは、かなり難しい。この点については他媒体に寄稿したことがあるので、下記のリンクを参照されたい。

参考:http://news.koreanbar.or.kr/news/articleView.html?idxno=23258

(女風堂々・女弁護士コーナー弁護士が「決心」をする時)


上記の方法以外にも、本書で言及されている「物語の中の物語」、「自由間接話法」といった手法を弁論で用いたことがあり、いずれも効果的であった。そこで、いつか文学的手法についてさらに深く学ぶ必要があると考えるようになり、その学びを兼ねて2020年末から小説を書いてみようとしたが、問題は小説がなかなか書けないということであった。文学コミュニティに参加したこともあったが、そのたびに他の参加者から受けた評価は「あまり面白くない」というものであった。


感情の麻痺と、その処方箋としての文学

そこで、「一体なぜ小説が書けないのか」という疑問を抱くようになったが、本書からその手がかりを得て、原因を知ることができた。弁護士の業務は感情労働の強度が非常に高い仕事であるが、この業務を遂行すればするほど、自己防衛機制のためか、感情が鈍麻していく現象が現れた。他の人々が悲しいと言う状況で筆者は特段の感情を抱かず、他の人々が感動的だと言う状況でも特に心を動かされない、という現象が生じたのである。一種の「無感覚」と言えるだろう。もちろん、こうした現象は業務処理の面で助けになる側面もあったが、共感能力が低下するという副作用もあった。まさにこうした現象について、本書では次のように診断している。


「感情のブレーキが慢性的なストレスにさらされ続けると、ブレーキが正常に作動しなくなる……前頭前皮質が大脳辺縁系を先回りして制御し、感情の源を抑え込む。その結果、我々の脳は爆発的な恐怖や喜びを経験する代わりに、何も感じなくなる。ただ機械のように黙々と作動するだけである」


そこで、本書で紹介されている「ベクデルの設計図」を活用し、この無感覚に対する自分なりの治療法を考案する必要があると感じた。本書は筆者に気づきを与えてくれただけでなく、筆者が抱えていた心の問題に対する処方箋をも示してくれた一冊であった。もし筆者と同様の感情の麻痺を経験している方がいれば、せめて本書第23章「凍りついた心を溶かせ」の部分だけでも、ぜひ読んでみることをお勧めしたい。

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