「本当に卑劣な人」は侮辱罪になる?韓国大法院判決を弁護士がやさしく解説

最近話題になった、ある侮辱罪の判決

最近、韓国の大法院(日本の最高裁判所にあたる機関)が、注目すべき侮辱罪の判決を言い渡しました。事件の概要は次のとおりです。

「被告人は、従業員たちに被害者が管理する事業所の問題点を指摘する内容のカカオトーク(メッセージアプリ)のメッセージを送る際、『民主労総○○○支部長は本当に卑劣な人のようです』と表現し、公然と被害者を侮辱した。」

――大法院 2022831日宣告 20197370判決より

原審はこの表現が侮辱罪に当たると判断しましたが、大法院は原審判決を破棄し、事件を差し戻しました。大法院は、その根拠として次のような法理を示しました。

「刑法第311条の侮辱罪は、人の人格的価値に対する社会的評価、すなわち『外部的名誉』を保護法益とする犯罪であり、ここでいう『侮辱』とは、事実を示すことなく人の外部的名誉を侵害しうる抽象的な判断や軽蔑的な感情を表現することをいう。ある表現が侮辱罪の侮辱に当たるかどうかは、相手方個人の主観的な感情や、その表現を聞いてどう感じるかといった名誉感情を侵害しうる表現かどうかを基準に判断すべきではない。当事者間の関係、その表現に至った経緯、表現の方法、当時の状況など客観的な諸事情に照らして、相手方の外部的名誉を侵害しうる表現かどうかを基準に、厳格に判断しなければならない。」

――大法院 2022831日宣告 20197370判決より

「個人の人格権としての名誉の保護と、民主主義の根幹をなす基本権である表現の自由は、いずれも憲法上保障される基本権であり、それぞれの領域内で調和的に保護されなければならない。したがって、侮辱罪の構成要件を解釈・適用する際にも、個人の人格権と表現の自由をあわせて考慮しなければならない。」

――大法院 2022831日宣告 20197370判決より

つまり、「本当に卑劣な人のようです」という表現は、相手に対する否定的・批判的な意見や感情を含んだ、程度の軽い抽象的な表現にすぎず、被害者の外部的名誉を侵害するとまでは言い難い、というのが大法院の判断でした。

この判決に接し、私にはいくつかの思いがよぎりました。




増える告訴、狭まる忍耐

弁護士として活動する中で扱う刑事事件のうち、侮辱や名誉毀損に関する告訴事件はかなりの割合を占めます。誰かが大勢の前で自分を非難する発言をしたと感じると、すぐに名誉毀損や侮辱を持ち出して法的対応を検討するケースをよく目にします。今回の大法院判決は、こうした流れに歯止めをかけようとする趣旨から出されたものではないかと感じます。人格権と表現の自由をあわせて考慮すべきだという大法院の説示は、多少無礼だったり不快だったりする表現であっても、それだけで直ちに刑事処罰の対象とすべきではないという警告として読み取れます。

弁護士として仕事をしていると、以前に比べて人々の自制心が薄れてきたという印象を受けることが少なくありません。かつては、多少悔しいことや不快なことがあっても、我慢してやり過ごす場合が珍しくありませんでした。そして振り返ってみると、そうした我慢のほうが、長い目で見ればずっと賢明な選択だったということが多いように思います。

止めようとした依頼人の記憶

この判決を見て、以前担当したある事件を思い出しました。当時の依頼人は、相手が実名を挙げずに特定の人物を非難する文章を書いたところ、その文章が自分を狙ったものだとして、名誉毀損として問題にしようとしていました。

私はその依頼人に、慎重になるようお伝えしました。相手が実名を挙げていない以上、依頼人本人はその文章が自分のことだとすぐに分かったとしても、第三者の立場からはそう受け取ることが難しい場合があると説明しました。むしろ、これを問題にした瞬間に事態がより大きくなりかねないという点も、何度もお伝えしました。それでも依頼人は告訴の意思を曲げず、結局、自分の意向に沿ってくれる別の弁護士を選任し、告訴を進めました。

時間が経ち、事件が予想以上に大きくなると、その依頼人は再び私に連絡してきました。そして、告訴などしなければよかったと、後悔をにじませました。私は、はっきりと告訴しないようにと伝えたこと、そして告訴すれば事態が大きくなりかねないと繰り返し説明したことを、改めて指摘しました。依頼人本人も、その事実を否定はしませんでした。

ただ、その裏には「それでも、もっと積極的に止めてくれるべきだったのではないか」という寂しさのようなものがあったように思います。しかし、その点については、私ははっきりと一線を引かざるを得ません。依頼人の選択を最後まで隣でつなぎとめ、思いとどまらせることは、弁護士が担うべき役割の範囲を超えています。そうした役割は依頼人のご家族が果たすべきことであって、弁護士が担うべきことではないと考えています。

裁判は人生の時間をすり減らす

その依頼人自身が引き起こした事件は、今なお終結していないようです。最初の高ぶった感情を少しでも抑えることができていれば、大切な時間を裁判に注ぎ込まずに済んだのではないかという思いが残ります。

多くの方が、裁判を大したことではないと軽く考えがちです。しかし、裁判の準備をし、何度も裁判所に足を運ぶことは、相当な時間とエネルギーを要します。自分に与えられた限られた時間を、より有意義なことに使える方であれば、裁判という手続きはできる限り専門家に任せ、ご本人はその手続きから一歩距離を置いておくほうがよいと思います。そして、できることなら、そもそも裁判を始めないことこそが、人生を無駄にしない道だと思います。

こう申し上げると、いささか意外に思われるかもしれません。弁護士は、依頼人が事件を依頼してこそ収入を得られる職業であるため、訴訟を勧めることが多いだろうという見方が一般的だからです。しかし私は、むしろ訴訟を思いとどまらせる側に近いと思っています。今回の大法院判決が示すとおり、多少無礼だったり不快だったりする表現であっても、それが直ちに刑事処罰につながるわけではありません。一瞬の感情を少し我慢することができれば、その我慢こそが、結局は自分の大切な時間を守る道になるはずです。

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